松本教会 礼拝説教(説教者 柳谷知之、南部正人)

xpreacher.exblog.jp ブログトップ

「すがりついてはならない」(すがりつく必要はない)/柳谷知之

聖書 

イザヤ書4312節 

1ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。

ヨハネによる福音書201118

11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


1.本日の聖書箇所が選ばれた理由

マルコによる福音書の復活証言として、以下の聖書箇所がある。

マルコによる福音書16911

◆マグダラのマリアに現れる

9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。

以上は、マグダラのマリアが復活の第一証言者であることを示す。

マグダラのマリアが復活の第一証言者であることを最もよく語っているのはヨハネによる福音書である。従って、本日は、ヨハネによる福音書から聴くこととした。

2.マグダラのマリアが復活の主イエスに出会う場面

2.1墓に向かって泣くマリア

 マリアは墓に向かって泣いている。―愛する者の死を前に、墓しか見えない。特に、遺体が亡くなってしまった悲しみ。残された遺体だけが、彼女がすがりつけるものであった。

 後ろを振り向く余裕はない。たとえ振り向いたとしても、主イエスが分からない。園丁だと思う。

 

2.2主に名を呼ばれるマリア 

主に呼ばれて、「振り向いて」、「ラボニ(わたしの先生)」と答えたマリア。文章で追っていくと、二度「振り向いた」ことになる。

振り向く―向きを変えること。すなわち悔い改めである。

この二度目の「振り向き」こそ、真の悔い改めである。

真の悔い改めが起こるのは、主イエスに名前を呼ばれることである。

 名前は、その人の本質、アイデンティティ(自己同一性)を現すから、名前が呼ばれることは、その人のすべてが知られ、受け入れられていることを意味する。

 名前が呼ばれることは、その人が愛されていることを意味する。

   →イザヤ書43章に示される神の呼びかけと重ねられる。

 人の悔い改めは、主イエス()に名前を呼ばれること、愛されていることが分かるときに生じるものではないか。

 その悔い改めによって、墓の中に向かう悲しみ、絶望的な悲しみから、神に向き合う道に導かれる。希望に生きる道が開かれる。


2.3 すがりつこうとするマリア

 復活の主イエスに出会い、マリアは主の体に「すがりつこう」とするが、主はそれを拒絶する。

 見えるものに、触れることができるものに「すがりつく」ことが希望に生きる道ではない。

 そこでマリアは、他の弟子たちのところに出かけて行って、「主を見たこと、主が言われたこと」と告げた。

 マリアは、告げる者となった。墓にいて「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねた天使たちと同様に。

「天使」とは、告知するもの、メッセンジャーの意味。18節の「告げ」「伝えた」は、もともとの言葉では、一つの言葉「アンゲロー」という言葉。これは、「エンジェル」と語源が一緒で、「告知する」、「告げる」 を意味。

 復活の主イエスに出会い、「告げる」こと。ここに希望に生きる姿がある。

3.「告げる」者となる 

いつでも一人一人の名を呼んでくださる主イエスによって、わたしたちは人生において神の愛を知る。

この世が絶望的でも、自分のことにおいて希望が失われているように見えても、神は私たちを見捨ててはいない。

この世界が、人々が絶望に向かうのは、見えるものにたよっているから、触れることができるものにすがりついているからではないか。ちょうど、マリアが主イエスの遺体にこだわり、主イエスの体にすがりつこうとしたように。

しかし、わたしたちは見えないものによって、生かされている。

主の愛の言葉によって生かされている。

わたしたちは告げられている。

「もう泣かなくてもよい。絶望しなくてもよい。なぜなら復活の主があなたの名を呼んでくださるから。あなたを愛しているから。神が御子を十字架につけてまで、あなたを神の子とするのだから」

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世(あなた、わたし)を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ316)が響いてくる。

心の奥底に、その喜びがあるならば、わたしたちは生きる力を奪われることはないだろう。

そして、その喜びを、世にあって絶望している人々に告げ知らせることができるに違いない。

 

 

 

 


[PR]
by XPreacher | 2018-04-08 10:20 | 復活後
line

日本キリスト教団のとある牧師の説教をまとめています。


by XPreacher
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30